2024/09/10 00:00
※弊社発行フリーペーパー「タニシインフォメーション」vol.280 2023年3月号掲載から
1992年以降赤字が続き、会社としては非常に厳しい状況の中、2000年(平成12)に現在の生産部部長の高尾が入社します。高尾の入社時、社員は11名でした。当時は分煙などもない時代だったので、社内でタバコを吸う人もおり、今では考えられない環境だったようです。
当時専務だった田河内秀子は飛び込み営業や、お客様からの紹介をいただくことで企業や団体・官公庁等の受注を取ってきましたが、その年の年商8,700万に対して、負債総額は7,700万もありました。
当社のターニングポイントとなる介護保険がスタートした2000年、6月には経営がとうとう立ち行かなくなり、人員削減や印刷機の売却を行いました。入社したばかりだった高尾も会社を辞めることに。

※当時の社内の様子
会社を存続させるか畳むかの判断がなされる中、田河内秀子も退職し看護師に戻ることを考えましたが、存続させる方向に決まります。まずは社内の体制を変え、田河内秀子が社長に就任、田河内康輔は会長として実務からは離れることになりました。人員整理を行い一時は4人になりましたが、数ヶ月後には高尾が戻り、翌年2001(平成13)には現社長の田河内伸平も入社します。(つづく)
(追記:2024年9月)あのころの記憶
この頃は猿猴川沿いのプレハブの1階に印刷、2階に制作が入っていました。制作に何故か釣り道具があり、時間が空いた時など先輩社員が窓から釣り糸を垂れていました。なんとものんびりした時代です。
また、川のすぐそばにあったためか、時々フナムシが部屋に迷い込んだり、事務所にカニが現れたりしていました。当時会社のあった蟹屋町は名前の通り、カニが多くいる場所で、会社の中にカニやフナムシが迷い込んでくるたび声を上げて驚いていました。
写真上の手前の男性が高尾、奥の女性が高橋です。タニシは一時4人になりましたが、高尾が戻り5人になりました。その直後の頃の写真です。約25年前のタニシの制作の風景です。
モニターを見て頂くと、奥行きがかなりあるのが分かると思います。モニターの横にある箱はMOとフロッピー(データを記録する媒体です)を収納しており、仕事のデータは全てそれらに保存していました。外観からWindowsかMacに見える外見ですがそうではなく、パナソニックが作っていた編集専用機で、一般のパソコンとはかなり違う動きをする機械でした。書籍や冊子を得意とする機械で、チラシやパンフレットなどのビジュアル重視の仕事はなかなか苦労した記憶があります。
写真が撮られた当時、2000年の日本のインターネット普及率は37.1%で、この年の6月にインターネット人口が2,045万人を突破、利用率17.1%だったそうです。この頃のインターネットは数字から見てもまだまだ一般的なものではなく、仕事で使う(WindowsPCに見える)機械はもちろんネットにつながっていませんでした。
右下の写真は印刷場です。手前がA3片面印刷機、奥が同じくA3片面印刷機ですが封筒専用にカスタマイズしたものです。菊半裁2色刷の大きな印刷機は出しましたが、こうして細々とではありますが、印刷の仕事を継続していました。
写真を見て分かる通り、人がいません。かつて10人以上が仕事をしていた場所でしたが、4人になった時は場所だけが広く感じられたものでした。
みんなが去っていき、専務から社長になった田河内秀子は高橋に言ったそうです。
「女性に優しい会社にしよう!」
2024年現在、男女比はほぼ半々で、多様な働き方に対応した会社に育ってきました。この時の言葉は今も会社の芯の部分に影響を与え続けていると感じています。